World Odyssey 地球一周旅行

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旅の日記
見たもの、乗ったもの、食べたもの…たくさんの驚きを写真と一緒にお伝えします。



▼PART49 2006.02.09 腸チフスからのリハビリ・トレック
>>ネパール アンナプルナ自然保護区



■歩ける喜び

汗ばむほどの陽気のなか、私はブルンディ・コーラBhurungdi Khola(ブルンディ川)の脇を歩いている。強く照りつける太陽。鳥のさえずり。川面から吹くそよ風。サイダー色をした川では、地元の人が釣り糸を垂れている。頭の上では、時たま強く吹く風に竹が葉をふるわせて応えている。むわっと、鼻に飛び込んでくる農家の暮らしのにおい。

「あー……、気持ちええなあ〜!」

深呼吸をしながら、心の底からしぼり出したようなセリフを吐いたものだ。大げさでも何でもなく、今この瞬間の私は、自然の中を歩く喜び、自分の足で歩く喜びをしみじみと実感していた。

1ヶ月前の私は、ポカラPokharaの病院にいたのだ。腸チフスだった。



■原因不明の発熱

体調の不調を感じたのはインドに入ってすぐだった。私たちは、ケニアのナイロビから飛行機でインドのムンバイに入り、2日後には聖地バラナシへと向かっていた。それから数日。最初は激しい頭痛だった。肩が凝ったり寝違えたりすると頭が痛くなることがある。そんな時は、ひどくならないうちに淳ちゃんが肩を揉んで治してくれていた。それでもダメな時は頭痛薬を飲むこともあった。その回数も旅行に出てからはぐっと減っていた。だが、この頭痛は治らなかった。こんなに激しい頭痛は初めてだった。

何だかいやな予感がした私たちは、次の日ホテルを変えてみた。明るい雰囲気で清潔なホテルだったが、その晩から38度を超える発熱が始まった。

薬を飲んでも、熱は一時的に下がるもののまた再び高くなった。ホテルのマネージャーが知り合いの医者を呼んでくれたが、症状は変わらなかった。マラリアを疑い、血液検査もやってもらってみたが、結果は陰性だった。

このままインドにいても良くならない……。ふたりでそう話し合った。食事はスパイシーなものばかり。それもかなり不衛生な場所でしか食事を摂ることができない。そしてここバラナシの雰囲気。具体的な根拠は何ひとつないが、私たちは自分たちの直感をけっこう信じている。ここはおもしろいけれど、元気にはなれない……。

とにかくインドを離れて、緑が多い湖畔の町と聞くネパールのポカラへ移動することにした。ポカラは、年末年始にかけてトレッキングに出かけようと考えていたベースとなる町だ。予定を少し早めたと思えば何てことはない。私たちは大した未練も残さず、インドをあとにした。

ポカラに来てからも熱は下がらなかった。早朝4時すぎからお祈りの声が響き渡るバラナシと違って、静かなポカラではゆっくり眠ることができたが、深夜になると決まって高熱になった。

年末年始のトレッキングのために買った航空券もキャンセルをした。心配してくれたホテルのマネージャーに付き添われ、ポカラのお医者さまにも診てもらった。だが診断は同じだった。「何かの菌にあたったのでしょう。抗生物質を飲んで2〜3日寝ていなさい」

気がつけば熱が出始めてから2週間以上もたっていた。そろそろ覚悟しないといけないな……。私は意外にも冷静に考えていた。

これまでも高熱が続いたことがある。それは感染性の肺炎だったり、扁桃腺炎だったりした。だが今回はそのどちらでもないようだ。血液検査でも何もひっかかってこなかった。おまけに発熱以外は特に不調がないのだ。これは日本で調べてもらうしかないだろう……。旅行を中止して日本へ帰る、そうするしかないと思った。

日本へ帰るしかないと思ったが、心が重いことが2つあった。ひとつは、日本で待っている家族のことだ。私たちが思う存分楽しんで、笑顔で日本に降り立つ日を待ってくれていたはずだ。だがこの状況で日本に帰るとなると、笑顔で元気に「ただいま!」とは言えないだろう。「元気で日本へ帰る」。これが最終的な目標だった私たちにとって、この結末はくやしく情けないものになってしまう。

もうひとつは、旅のパートナーである淳ちゃんに対する申し訳なさだった。いくら夫婦で運命をともに旅を続けてきたからと言って、私のせいで帰国となってはさぞかし悔しいだろうと思ったのだ。旅の最終コーナーはヒマラヤを歩こう、そうふたりで話し合っていたのに、それが叶わなくなる。そして旅が終わってしまえば、今度はいつヒマラヤに来ることができるのだろうか。その時には、今やってみたいスタイルの旅はもうできないかもしれない。今しかできない旅を思い切り楽しもう、そう思ってここまでやってきた私たちにとって、旅が突然終わってしまうことは後悔なく受け入れられても、やはりほろ苦いくやしさが残ってしまうことも事実だった。

そう思いつつ現実には熱が下がる気配はない。ここは決断をしなくてはいけないところだろう。……日本へ帰ろう。私は淳ちゃんに話した。日本に帰るための必要な手続きを問い合わせるため、保険会社へ電話をしてもらうこともお願いした。淳ちゃんはじっと私の話を聞いてくれていた。最後は私の決断を待つつもりでいてくれたのだろう。帰ると決めたならもう何も言うことはない、そんな様子だった。



■腸チフスと診断

日本の保険会社へ、緊急帰国の際の手続きを問い合わせてくれていた淳ちゃんが戻ってきた。どうやらポカラには、日本人がよく利用する病院が他にもあるようだった。私たちが調べていたのは、外務省や厚生労働省のウェブサイト。そのいずれにも紹介されていなかった病院だが、旅行者がよく利用する病院なので一度行ってみたらどうか、ということだった。これでダメだったら本当に帰国しよう。私たちは、最後の望みをその病院に託してみることにした。

教えてもらった病院はツーリスト・エリアの外れにあった。「ここで休んでいてください」と通された部屋は、まるでホテルのようだった。ベッドがふたつ並びトイレとシャワールームが付いている。大きな窓の外にはベランダもある。「ここなら助けてくれるかもしれないね」私たちはそう話しながら、お医者さまと血液検査官を待った。

検査の結果が出たのは翌朝だった。前日お医者さまが「腸チフスかもしれないな」と言っていたとおり、私は腸チフス菌に感染していたのだ。腸チフスとは細菌感染症の一種。不衛生な場所で主に糞尿を介して感染してしまうらしい。アフリカに入る前に予防接種を受けていたのだが、予防効果は80%程度だという。潜伏期間から考えるとインドに入って早々に感染したのだろう。体力が落ちていたのか、アジアに入って気が緩んでいたか。いずれにしても、感染しても発症しない人もいるというから何らかの免疫機能が落ちていたのだろう。

症状は発熱がほとんど。脈が遅くなったり腸に潰瘍ができたりもするそうだが、ほとんどが重症化することなく、抗生物質を飲めば完治していく病気なのだという。私の場合は最終的に10日間の入院、計8本の点滴と投薬を受けたことになる。



■病気中の心の動き

腸チフスによる発熱だと原因がわかったことで、私たちはずいぶん気が楽になった。一時は帰国の覚悟までしたわけだが、今はもう少し様子を見てみようということになっている。重症化することがなければ、時間はかかったとしてもここポカラで治すことができる。治すことができれば、また旅行を続けることも可能なのだ。幸い資金の方はまだ余裕がある。実は「ヒマラヤのあと余裕があったらニュージーランドにも行っちゃおうか!」と話していた時もあったのだが、こちらの方もやはり幸いなことにまだ本気ではなかった。ヒマラヤのふもとに残ることができるかどうか。私たちにとって大切なのは、この一点だけだった。

年の明けた1月5日、私は退院してホテル療養となった。まだまだ足元もおぼつかない。これから、約1ヶ月かけて体調を元に戻していかなくてはならない。そして本当に体調が戻った時、私たちの旅をどうするのか……ふたりで決めようということになった。

病気になってからの私の気持ちは、三段階に分かれて変化していった。入院したてのころは「何も考えられない期」。もちろんその前数週間の発熱期もそうだったのだが、迷惑をかけてすまないとか心配させてすまないとか、そんなことしか考えられずにいた。

少し症状が落ち着いてくると「希望期」に入った。治るんじゃないか、元気になるんじゃないかという希望を持てるようになったのだ。「何も考えられない期」に、もう治らないんじゃないかと悲観的な気持ちになったわけではなかったのだが、「希望期」に入ってやっといろいろな希望を持てるようになっていた。

あとになって自分でもおもしろいなと思ったのだが、「希望期」の私は、このあと続く旅のことと同時に、日本へ帰ってからのことを多く考えていた。病気が治ったのならまだしばらく日本へ帰らなくていいはずなのだが、こんな食生活にチャレンジしようとか子供のいる生活はどんなだろうとかおばあちゃんと一緒にどこへ行こうかなとか、とにかく日本に帰ったらこんな暮らしをしていこうといったことを、点滴を打ちながら延々と考えていたのだ。私がその時期を「希望期」と名付けた通り、思い描く日本での暮らしは、それはもう希望に満ち満ちたものだった。

退院してしばらくすると、普通にものが食べられるようになり、少しずつ体力がついてきた。まだまだ口には出さないものの、淳ちゃんも私も「もしかして、トレッキングできるようになる!?」と考えてしまう時期だった。だがそんな期待とはうらはらに、私の自信は低空飛行のままだった。数日体調がよかったのに、ある日突然不調がやってくる。この時期の私の体調はまだまだ安定しなかった。そのせいもあるだろう。だが、しばらくたって体調が安定してきても、なかなか「もう元気だよ!」と言えずにいた。言ってしまったら次はトレッキングに行けるのかどうか、ジャッジしなくてはいけない。私にはその自信がなかった。また体調を崩すのが恐かった。最後にやってきたのは「自信喪失期」だった。

だが確実に体力は戻ってきている。毎日歩ける距離はどんどん伸びているし、体調も安定してきた。バックグラウンドは整いつつあるのだ。私に必要なのは、もう大丈夫と自分で言える自信だろう。

そんな自信が欲しくて、退院から2週間ほど経ったある日、私たちはポカラを見下ろす丘に登ってみたのだった。登り口まではタクシーで。そこから約1時間。数百メートルの標高差を一歩一歩、自分の体の声を聞きながら上がっていく。丘の上には日本の仏教団体が建てた仏塔があった。私、歩けた! 丘の上からポカラの町を見下ろした時、私の「自信喪失期」はやっと終わったようだった。

「ネパールで歩きたかった場所へ行こう」
私はやっと淳ちゃんに言うことができた。淳ちゃんは私がそう言うまで、本当に何も言わず、ただひたすら待っていてくれたのだった。


■ヒマラヤ・トレッキングとは

ネパールでの私たちの目的はただひとつ。ヒマラヤ・トレッキングをしたいということだけだった。

だがヒマラヤと言ってもずいぶん範囲が広い。

ヒマラヤ山脈Himarayasとは、標高7,700メートル以上の世界の高峰をすべて有する大山脈だ。世界最高峰であるエベレスト山Mt.Everest(チベット語でチョモランマChomolungma、ネパール語ではサガルマータSagarmatha)8,850メートルももちろん、このヒマラヤ山脈の中に入っている。面積は約59.5万平方メートル(ケニアやマダガスカル、ウクライナの面積に近い大きさ)、長さは2,400キロにも及ぶという。西はパキスタン北部のインダス川上流域から始まり、東はネパールのほぼ全土をおおっている。ヒマラヤとはサンスクリット語(梵語)で「雪のすみか」を意味しているのだそうだ。

世界の屋根とも言われるヒマラヤ山脈は、アジア・プレートとインド・プレートがぶつかり合って隆起したものらしい(インドは南極大陸から分離してできたもので、アジア大陸とは別の大陸だったのだ)。この場所、かつてはテティス海という海の底だったのだという。そして今でも、ヒマラヤ山脈はプレートに押し上げられているのだそうだ。ある調査では、エベレスト山の水平位置は今でも毎年約6センチずつ北東側へ移動しているという。

私たちが今回歩きたいと思っているのは、ヒマラヤ山脈のなかでもネパールに位置するエリアだ。ネパールにはエベレスト山を含めて8,000メートルを超える高峰が8つもある。8,000メートルを超える山は世界に14しかないというから、そのほとんどがネパールにあると言えるだろう。そんな高峰にはもちろん氷河が横たわっている。北緯28度に展開される氷河は、いったいどんな顔をしているのだろう? 私たちの興味はそこから始まった。

ネパールのヒマラヤ山脈は「トレッキング」発祥の地と言ってもいい。トレックTrekとは、もともとオランダ語のトレッケンでのちに英語に取り入れるようになったという。冒険Adventureに近いけれどそれほどでもないという旅行に用いられたようだが、当時はそれほど一般的ではなかったらしい。

トレックという言葉を象徴的に使い始めたのは、1960年代のこと、開国間もないネパール政府だったという。観光産業で外貨を獲得するため、ヒマラヤの山歩きを「トレッキング」としてアピールするようになったのだそうだ。ネパール政府は「トレッキング」を「登山」とは厳密に区別している。大きな登山隊を率いて高額の入山料を支払わなければいけない「登山」と違い、「トレッキング」は特別な装備や訓練を必要とせず、体力や年齢にかかわらず誰でも楽しめるものとした。

トレッキングは今や、「頂上を目指さない長期間のハイキング」として広く知られたと言っていいだろう。そういう私たちも亜極北の地でトレッキングに出会ってからというもの、トレッキングを中心に旅を続けてきている。誰でも簡単に自然の中を歩く楽しみを享受できる、というネパール・ヒマラヤでのトレッキングも、ここまで来たからにはぜひぜひ体験してみたいと思っていた。



■ネパールでのトレッキング


ネパールで誰でも比較的簡単に歩くことのできるエリアは、大まかに言って3つある。エベレスト山を間近に見に行くソル・クーンブ域Sol Khumbuへのトレッキング、世界一美しい谷とも称されるランタン谷Langtang Valleyへのトレッキング、そしてポカラ近くに広がるアンナプルナ山域Annapurnaへのトレッキング。そのどのエリアでも氷河を見ることは可能だ。

だが氷河を見るためには標高4,000メートル以上の高地へ上がらなくてはいけない。私たちの当初の計画はこうだった。

まず高度馴化も兼ねてアンナプルナ山域でトレッキングをする。コースはアンナプルナ山群西側の谷を進むジョムソン街道Jomsomというルート。チベット文化圏も体験することができる興味深いコースだ。このルートに氷河はないが最高標高でも3,800メートル程度なので、高度馴化にはちょうどいいと考えていた。年末年始はこのルートを歩くつもりだった。

そのあとベースを首都カトマンドゥKathmanduに移動し、ランタン谷、ソル・クーンブ域へと進むつもりだった。ランタン谷の奥、そしてソル・クーンブ域の最奥には氷河が横たわっている。

だが、私が腸チフスにかかってしまったので、当初の予定を考え直す必要があった。最終的な目標はやっぱり、ヒマラヤの氷河を見てみたい、ということになる(できればソル・クーンブ域の最奥、エベレスト山のふもとにある氷河を見てみたい……)。それならば、不可能かもしれないけれどそれに照準を合わせてみるべきだろうということになった。

アンナプルナ山域でのトレッキングは、リハビリ・トレッキングと位置づけることにした。何しろ1ヶ月近くほとんど寝たきりで、そのあと1ヶ月にしたって激しい運動は何ひとつしていない。本当に、荷物を担いで山道を歩くことができるのか。長期間歩くことができるのか。ポカラの町で療養していただけではなかなかわかりにくいこの判断を、アンナプルナ山域、プーン・ヒルPoon Hillという展望地周辺のトレッキングで試してみることにしたのだ。最高標高は3,200メートル。高度障害が起きるかどうか、ギリギリの高さだと思う。

ポーターを雇う、とかラクできる方法もある。だがそれは最後の手段にとっておこうと思う。今まで何とか自分たちの力で歩いてきたのだ。歩けるのなら最後まで自分の力で歩いてみたい。

実はネパール・ヒマラヤの主なトレッキングは、けっこうラクチンにできている。というのも、トレイルと言ってもそのほとんどが山中に暮らす人々の生活道なので、2〜3時間ごとに山小屋や食堂、茶店が現れるという仕組みになっているのだ。つまり今まで運んでいた、テントやストーブ、予備を含めた食料は持っていく必要がない。荷物が軽くなるだけではない。これは歩いてみて気づいたのだが、山小屋があるということはテントの設営・撤去をする必要がなく、食堂があるということは食事を作ったりあと片づけをしなくていいということになる。極端なことを言えば「歩くだけ」。ただ歩くだけでいいのだ。

今回は一般的なトレッキングコースしか歩くつもりがないので、このメリットを存分に活かすことができる。肉体的な負担はいつものトレッキングより少ないはずだ。まずは、アンナプルナ山域でリハビリ・トレッキングにチャレンジし、うまくいったらランタン谷でのトレッキングにチャレンジしてみよう。そしてこれも問題なく終わったら、ソル・クーンブ域へ行ってみよう。ひとつの目標をクリアしたあとで、次の目標については具体的に考えることにした。ランタン谷の最高標高は4,565メートル、ソル・クーンブ域での最高標高は5,545メートル。腸チフスにかかっていなくても、何が起こるかわからない標高である。



■リハビリ・トレッキングスタート

そんなわけで私たちは退院から3週間ちょっと経ったある日、アンナプルナ山域プーン・ヒルへリハビリ・トレッキングに出かけた。ポカラからローカルバスに乗って約2時間。ナヤ・プルNayaPulという集落から歩き始めた。谷の底近くまで、急な石段を下りモディ・コーラModi Khola(モディ川)沿いをさかのぼる。しばらく歩くと吊り橋が見えてきた。ビレタンティBirethantiだ。ここからトレイルは二手に分かれる。モディ・コーラ沿いをさらに上流へ進めば、アンナプルナ山群登山への拠点となるアンナプルナ・ベース・キャンプAnnapurna Base Camp(アンナプルナ内院Sanctuaryとも呼ばれている)へと続く。進路を左手に取れば、今回私たちが目指すプーン・ヒルへのトレイルとなる。
【詳しいルートの地図はこちら】
⇒ http://www.chiq1.com/a/map4.html

吊り橋のたもとの茶店でチャーChaa(ミルクティ)を飲み、持ってきたサンドイッチを頬ばる。眺めのいいテラスから道行く人々を見下ろす。トレッカーの姿はほとんどなく、重い荷物を背負った地元の人がほとんどだ。

昼食を終え吊り橋を渡る。トレイルはブルンディ・コーラの脇をさかのぼり始めた。先ほどの昼食といい、このトレイルといい、あまりの気持ち良さに思わず笑みがこぼれてしまう。自然の中を歩く喜び、などと歯の浮きそうなセリフだが、こんなにも幸せなことだったのか。改めてそう思う。

その日はティルケドゥンガTirkedhungaで宿をとることにしていた。元気だったらその先のウレリUlleriまで行ってしまおうと思っていたのだが、やはり久しぶりに歩いたせいだろう。ティルケドゥンガに着いたのは16時30分。谷の底にあるこの集落はすでに薄暗かった。

驚くことに山小屋にはシャワーもついている。太陽熱を利用して、熱々ではないものの何とか浴びられる程度のお湯が出るのだ。これまでのトレッキングでは汗だくになるということは少なかったのだが、今日は汗だくだ。ありがたくシャワーをいただくことにする。

このアンナプルナ山域は、そのほとんどがアンナプルナ自然保護地域Annapurna Conservation Areaに指定されている。トレッカーは入域料2,000ネパールルピー(約3,448円)を事前に支払い、パーミット(入域許可証)を持って歩くことになっている。地域内の山小屋やレストランは一定のコミュニティを作り宿泊料金やメニューの価格を統一している。ベッドがふたつ並んだツインルームの料金はひと部屋100ネパールルピー(約172円)。驚くほど安い。

食事のメニューはポカラとほとんど同じものが並んでいる。フライドライス(チャーハン)、チョウメン(焼きそば)、モモ(蒸しギョウザ)……、スパゲッティやケーキもある。だがこんな時は、ダル・バートDal Bhatが一番だ。

ダルバートはネパールの一般食。ダルとはレンズ豆のスープ。バートは炊いた米のこと。それにタルカリTarkariと言われる野菜のおかずが一品つく。このあたりのタルカリはジャガイモやタマネギ、キャベツ、ニンジン、カリフラワー、ダイコンなどの野菜のなかからいくつかをニンニクをベースに炒めあわせたものが多い。カレー味のこともあればバター味やしょう油味の時もある。運が良ければアチャールAcharという漬け物(このあたりではダイコンのカレー漬けだった)がついてくる。これらはステンレスのお皿に(まるでお子様ランチの器のように4つに区切られている)盛られて出てくる。しばらく食べていると必ず聞かれる。「おかわりはどう?」そう、ダル・バートは基本的に食べ放題なのだ。

長期間のトレッキングになればなるほど食事はダル・バートにした方がいい。米に豆、野菜と栄養バランスがしっかり取れているからだ。そして何より早くておいしい。ネパールの人がいつも食べているものなのだから、上手に作れるに決まっている。もし混み合っている時ならなおさら待ち時間は少なくなるだろうし、何より貴重な燃料の節約になる。夕食を作るためには、貴重なヒマラヤの木を切って薪にするか、何日もかかってプロパンガスを運んでくるしかないのだ。

そんなわけで夕食はダル・バート。お腹いっぱい食べたら、あとは寝るだけ。うーん、ヒマラヤ・トレッキング、快適だ……。



■ゴレパニへ向かう

2日目は昨日行けたらと思っていたウレリまで3,300段の石段を登らなくてはいけない。だがそれでもまだ行程の半分に満たない。最終目的地はゴレパニGhorepaniという峠の村。ティルケドゥンガとの標高差は1,400メートル近くある。

ウレリまでは1時間半。順調に高度をかせぐ。アンナプルナ・サウスAnnapurna SouthとヒウンチュリHiunchuliが見える茶屋で一服したあと、さらに高度を上げていく。バンタンティBanthantiで昼食をとり、標高2,430メートルのナンゲタンティNangethantiの茶屋に着いたのが14時30分。すでにふたりともクタクタである。

ゴレパニまでは約1時間の道のり。休憩したり寄り道したりしながら、ゴレパニにたどり着いたのは16時30分だった。ゴレパニの村の中でもデオラリDeoraliという峠の真上にある集落に宿をとる。

山小屋の窓からは、暮れ始めた空に霞みながらも、アンナプルナ山群と高峰ダウラギリ山Mt.Dhaulagiri(8,167メートル)が一連となって見渡せた。おおお……。久しぶりの感覚がよみがえってきた。万年雪と氷河をたたえる山の存在感。ぐんぐん落ちる気温。ひんやりとした頭皮の感覚。さっきまで汗をかきながら登ってきていたのだが、やばいやばい。あわててニットキャップをかぶる。

しばらく窓の外に広がるスライドショーのような景色に見とれているうち、淳ちゃんはあっという間に防寒体勢に着替えていた。「おれ景色見てくるわぁー」いつものセリフだ。ものすごい風景を前に、いても立ってもいられなくなる淳ちゃん。また今日も、自分の好きな場所を探してしばし景色に酔うのだろう。私は今日1日の余韻を楽しみながら、窓の外を眺めつつ、ゆっくり着替えをした。いつの間にか日は落ち、アンナプルナ・サウスの上にも星が見え始めていた。

ダル・バートを食べ早々に眠ろうとしたが、同宿になった香港人のカップルと話が弾む。宿の人が火を入れてくれた薪ストーブを囲んで、香港のことをいろいろ教えてもらった。こんな楽しみも、ヒマラヤ・トレッキングならではだろう。



■プーン・ヒルでの朝

3日目。メインイベントであるプーン・ヒル登頂の朝だ。プーン・ヒルはゴレパニから300メートルほど登った丘。ゴレパニから眺めるよりもっとパノラマティックにアンナプルナ山群とダウラギリ山の眺望を楽しむことができる。目玉は日の出。この時期は6時45分ごろに日が昇るということなので、5時30分に宿を出て歩くことにした。出発時は暗いのだが、同宿の香港人カップルが連れているガイドがいるので心配ない。後ろからくっついていけばいいのだ。

足元を懐中電灯で照らしながら急な石段を登る。30分ほど歩くと空の色が紺色に変わり始めた。日の出前のきれいな時間に間に合わなさそうだったので、淳ちゃんには先へ行ってもらった。標高はもう3,000メートルを超えているだろう。わずかに息苦しさを感じながら、それでも順調に頂上へ向かって歩いていく。

ふいに視界が開けた。藍色に変わった空に、アンナプルナ・サウスやダウラギリ山がぽっかり浮かんでいる。一枚の絵を見ているかのような、完璧な姿だった。空は一点を中心にどんどん白味を増し、ピンクの雲の帯をまとい始めた。日の出だ。

世界が希望に満たされていく気がする。プーン・ヒルに集まったトレッカーにそそぐ日の光。私たちはきっと、また新しい力を手に入れたに違いない。新しい朝がくれる希望の力。私はその力をいっぱいためて、たくさんの人におすそ分けしたいと思う。

実は私たちは、日の出を見に行く、というのがあまり好きではない。まず暗いうちに歩き始めるのが楽しくないこと、早い時間に歩かなくてはいけないので起きてからすぐの行動になるのがいやなこと、当然朝ごはんもゆっくり食べられないので楽しくないこと、日の出を楽しんだあとどうしても慌ただしい1日になってしまうこと、朝焼けは好きだが日の出自体にあまり興味がないこと……などなど理由は多い。現にケニア山での日の出は頂上から眺める日の出だったので、私たちとしては興味が持てず、明るくなってから歩き出している。

だが今回は山々の朝焼けが期待できたこと、そしてプーン・ヒルと言えば日の出!と言われるそうなので、行ってみようということになったのだ。

結果は期待以上の素晴らしさだった。アンナプルナ・サウスやダウラギリ山も何とか朝焼けしてくれたし、何より朝を迎える新鮮な空気を感じることができたのが良かった。びゅーびゅー吹き付ける風の中で日の出を待つ感じ、そこから感じるひと筋の光、太陽に照らされて感じる暖かさ、たくさんの人と迎える新しい朝。そのひとつひとつが、何とも言えず素晴らしく貴重なものに感じられたのだ。

「よかったなあー、ちーちゃん。ホント元気になったなあー」しみじみ。本当にしみじみ淳ちゃんが言う。しみじみ言うけれど、満面の笑みだ。「いや、ポカラに無事帰るまでは、完全復活とは言えないけどな」釘を刺すことも忘れない。

ここまで約2ヶ月。淳ちゃんはずっと待ち続けてくれていた。ただ私が元気になることだけを考えて待ってくれていた。私だったら愚痴のひとつも言いたくなるよなあと思うような時でも、何も言わずただ待っていてくれていた。

本当にありがとうと言えるのは、ネパールの旅が終わった時だろうか。目標としていたトレッキングをすべて歩ききることができた時。あるいは、途中で断念せざるをえなくなった時。とにかく私たちのネパールの旅が何らかの形で終わった時、私は改めて淳ちゃんにありがとうと言いたいような気分だ。

まずは私が元気で歩いていること。その姿を見て淳ちゃんは幸せそうにしてくれている。そんな毎日を繰り返してネパールの旅を終えていければいい。そう思う。



■リハビリ成功

プーン・ヒルで3時間ほど過ごしたあと、私たちは3日目の宿泊地シーカShikhaに向けて歩き始めた。シーカの村は標高1,935メートル。そこまで一気に下りとなる。

下りはいつも慎重になるのだが、今回はさらに気を使った。このトレイルは人々が使う生活道だけあって、そのほとんどが石段なのだ。何も考えずに下りるとあっという間に膝を悪くしてしまう。

ガイドブックではプーン・ヒルに登った日は、この先の温泉地タトパニTatopaniまで一気に下ることになっている。私たちは忙しい日程になることを避けて、初めからこの日は中間地点であるシーカに泊まることにしていたのだが、正解だった。ゴレパニからシーカまでは3時間と聞いていたが、シーカに着いたのは4時間以上たった15時30分。慣れない石段の下りでけっこうヘトヘトだった。

この日もダル・バートをお腹いっぱい食べ、薪ストーブであたたまったあと眠りにつく。山小屋はなんて幸せなんだろう。

4日目、私たちはカリ・ガンダキKali Gandaki(カリ川)沿いに湧く、タトパニ(ネパール語で熱い水という意味)という温泉地にたどり着いた。ここまで来ればゴールは目の前。運が良ければ明日、数時間歩いた先にあるティプリャンTiplangという村から車を乗り継いでポカラに帰ることができる。

地元の子供たちがプール替わりに遊ぶ温泉で足湯を楽しみながら、今回のトレッキングをふり返る。つんと鼻につく硫黄のにおい。「この湯、かなりええで〜」湯船にしずんだ淳ちゃんが、ブワシャッとお湯から顔を出しながらごきげんで叫ぶ。のんきで平和な時間だ。

こんな何でもない時間を大切に感じる。自分の足でヒイヒイ言いながら歩いてきて、ごうごう音をたてる川のすぐそばで温泉を楽しむ。簡単なようでいて、それが叶うことはやっぱり貴重なことだ。こんな気持ちはあっという間に忘れてしまうのだろうが、今は心からありがたく思う。太陽に森、水に空、鳥や風、そして淳ちゃん。いやもう、ありがたくてしょーがないのだ。






▼トレッキング 覚え書き

1/29 晴
Pokhara → Naya Pul 車移動
Naya Pul → Thirkhedunga

1/30 晴
Thirkhedunga → Ghorepani

1/31 晴
Ghorepani → Poon Hill
Ghorepani → Shikha

2/1 晴
Shika →Tatopani

2/2 晴→曇
Tatopani → Tiplyang
Tiplyang →Galeswar 車移動
Galeswar → Beni 車移動
Beni → Pokhara 車移動






 
インド ムンバイCST駅
ムンバイCST駅。深夜0時10分発でしたがこのにぎわい。ここからバラナシへ向かいます。

インド バラナシ リキシャー 街
バラナシ。人多っ!車両規制があるので車が少ないのですが、このリキシャーの数、人の数。インドって感じですねー。

インド バラナシ ゴドゥーリヤ
バラナシ一にぎわっているゴドゥーリヤの交差点。私が立っているんですが見えますか?

インド バラナシ 修行僧サドゥー
聖地だけあってバラナシにはたくさんの修行僧サドゥーがいます。この人はガンガー沿いで一番人気だったサドゥー。私も「写真を撮らせてください」とお願いしたら「チャパティ(小麦粉を練って焼いたもの)5枚ね」と言われました。言われたとおりチャパティ屋でチャパティを5枚買ってプレゼント。ごきげんで撮影を終わらせると「写真はこのメールアドレスに送ってね」とメルアドを渡されました。手に持っているのはちなみに彼の髪の毛。

インド ガンガー ガンジス河
ガンガー(ガンジス河)で沐浴をする人、お風呂に入る人。

インド ガート 沐浴場
一番大きなガート(沐浴場)であるダシャーシュワメード・ガート。淳ちゃんがボートから撮影。

インド ネパール ポカラ
そしてネパールのポカラ。絵はがきによく使われるアングルで撮ったもの。手前はフェワ湖Phewa Tal。奥の左手にはマチャプチャレ山Machhapuchhare(6,997メートル)がそびえています。

 
ネパール 入院
そして入院中の様子。これは看護士のクリシュナ。インド人です。基本的にいいやつなんですが、問題も多くて大変でした。これは朝の点滴スタート時。クリシュナがカメラばっかり気にして手元がおろそかになっているので私はヒヤヒヤしています。

 
ネパール トレッキング
そしてここからはリハビリ・トレッキングの様子。ナヤ・プルでバスを降りたところ。小さな吊り橋を渡るところからスタートします。最後まで歩けるかな〜、ドキドキの一瞬。

チベット タルチョ 旗
チベット的光景として象徴的なタルチョと呼ばれる旗。お経が印刷されたこの旗は、峠や川、家や聖なる場所に掲げられています。5つの色は物質の五元素「地水火風空」を現していて、空気を浄化したり神を鎮める役割があるのだとか。ネパールにはチベット系の人も多く住んでいます。これはビレタンティにて。

ネパール・ヒマラヤ・トレッキング
トレッキングというと山歩きというイメージですが、ネパール・ヒマラヤ・トレッキングは趣がかなり違います。山が険しすぎて車が通れる主要道路がほとんど開発されていないというのが現状なのですが、とにかくどんな山の奥でも人々の生活をつなぐ道があるという印象です。

ネパール トレッキング
ブルンディ・コーラに入ったところ。のどかな風景が広がっています。

ネパール トレッキング
まるで南信州の街道でも歩いているかのような風景。このあたりはまだ標高も低いので日中は暑いほど。

 
ネパール トレッキング
2日目の昼食を取ったバンタンティの茶屋。ずっと見えていたアンナプルナ・サウスは姿を消してヒウンチュリだけが見えます。昼食はすぐ食べられておいしい野菜&卵ラーメン。インスタント麺はネパールでも大人気です。

ネパール トレッキング
バンタンティを過ぎてナンゲタンティまでは陽が当たりにくくうっそうとした森になっています。オーク(ナラやカシ)の種類が多いそう。もう少しあとになると、ネパールの国花でもあるロードデンドロンrhododendron(セキナンシャクナゲ)の赤い花がいっせいに咲くそうですが、私たちが見たのは早咲きのいくつかのみでした。足元にはジンチョウゲのような花があちこちに。いい香りがトレイルを包んでいました。

 
ネパール トレッキング
プーン・ヒルの夜明け前。中央の山がアンナプルナ・サウス。一番右に見えるのがポカラからもよく見えるマチャプチャレ山。

ネパール トレッキング
アンナプルナ・サウスから視線を左に移すとダウラギリ山の雄姿が。右に見えるのはティリチョ山Tillicho Peak(7,134メートル)と教えてもらいましたが方角からいって、ホントかな? ここプーン・ヒル山頂からは30以上もの山々が見えるそうです。

ネパール トレッキング
アンナプルナ・サウス方向がずいぶん明るくなってきました。

ネパール トレッキング
日の出。太陽が昇ってきて私たちを照らし始めました。これは山頂にある展望塔。

ネパール トレッキング
日が完全に昇ってしまうと、他のトレッカーはいそいそと下山。今日の予定はゆったりとってある私たちは気が済むまでプーン・ヒルからの眺めを楽しむことに。空がクリアになってダウラギリ山もいっそう神々しい。8,000メートル級の山を見るのは初めてなのですがとても近くに感じました。

ネパール トレッキング
ザ・プーン・ヒルな光景。

ネパール トレッキング
日がすっかり昇るととたんに暑くなります。これは下山途中。

ネパール 羊
ゴレパニをあとにシーカに向かう途中。ヒツジの大群に会いました。ここのヒツジはなかなか言うことを聞かないようで、これも本当は私の前を通っていかなくてはいけなかったよう。先頭のヒツジは羊飼いからこぶし大の石を投げられて怒られていました。

ネパール ガーラ
シーカを出てガーラGharaという集落を過ぎているところ。右手にはニルギリ山Nilgliの頭がちょこんと見えています。この写真ようにネパールの人々はものを運ぶ時、頭を支えにして背中に背負うスタイルが多いです。

ネパール ガーラ
ガーラのあたりから子供たちがとたんに元気になりました。私たちの姿を見ると「わー!」とよってきます。「写真撮るよ〜!」と声かけるとこんな感じ。

ネパール ガーラ
ガーラからカリ・ガンダキへ下りていく途中「バレーボールしよう!」と子供たちから声をかけられました。右側は切り立つような崖。こんな場所でー!?と思いながらもスタート。ベコベコのボールでしたがおもしろかったです。

ネパール ジョムソン街道
ジョムソン街道と呼ばれるカリ・ガンダキの谷。この奥はジョムソン、さらに奥はムスタンMustangというチベット文化圏になります。

ネパール ジョムソン
ジョムソンに空港もできましたが、今でも主な物流手段は人間の足。特にカリ・ガンダキに入るとたくさんの運び屋さんとすれ違いました。ひとり100キロもの荷物を担ぐ人、延々と続く馬の隊列を率いる人。一番おもしろかったのがこの鶏おじさん。区切られたケージにニワトリを入れて運んでいます。

ネパール 馬
典型的な馬の列。先頭の馬は大きな鐘を首につけているので隊列がきたことはすぐわかります。彼らが来たら山側で待つのが鉄則。谷側によけると蹴り落とされる場合もあるからです。

ネパール 馬
うまい具合にティプリャンで乗り合いジープをつかまえることができました。マヒンドラというインドのピックアップ車を使用しています。ここからガレシュワールという村まで約1時間。10キロ弱の道のりです。

ネパール 馬
お天気が良くなったのでバイクを借りてダンプスDhampusへワンデイハイクに出かけた時のもの。セティ・コーラSeti Kholaの岸辺からマチャプチャレ山がよく見えます。

ネパール 馬
フェディPhediという場所にバイクを止めてダンプスまで約1時間。急斜面を登っていきます。森の中を抜けるとなんとも懐かしい風景。狭い斜面にびっしり作られた段々畑が続きます。そろそろ農閑期も終わりのようで、牛を使って畑を耕している様子も見られました。




▼PART50 2006.03.05 世界一美しい谷に眠る氷河〜 ネパール ランタン国立公園
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