World Odyssey 地球一周旅行

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旅の日記
見たもの、乗ったもの、食べたもの…たくさんの驚きを写真と一緒にお伝えします。



▼PART38 2005.06.26 ストから逃れられない!
>>ボリビア・ペルー ティティカカ湖周辺



■神々の湖・ティティカカ湖へ

バスが小高い丘をいくつか越えると、急に視界が開けた。目の前に広がるのは真っ青なティティカカ湖Lago Titicaca(ラゴ・ティティカカ)。琵琶湖の約12倍もの広さを持ち、汽船が航行する世界最高地点の湖。インカ帝国発祥の地とも言われる伝説の湖。ティティカカ湖は、歴史や風俗に詳しくない私たちにとっても何だかロマンをかき立てられる湖だ。

バスはティティカカ湖を渡るために湖岸に止まる。バスごと船に乗せてティティカカ湖を渡れば、今日の目的地ボリビア最後の町でもあるコパカバーナCopacabanaはすぐそこだ。いやいや。それにしてもここまでたどり着くのは、なかなか大変だった。何しろ2日がかりだったのだ。

ボリビア南部ウユニ塩湖を訪れたあと、その足で私たちは首都ラ・パスLa Paz行きの夜行バスに乗った。夜8時に出たバスは朝4時、オルーロOruroに到着する。ここでバスを乗り換えさらに3時間。ラ・パスに着いた時はもうフラフラだった。

ウユニ塩湖にいる間から「スト」の噂は出ていた。週明けから活発化するから交通がマヒするかもしれない……そんな情報があったからこそ、私たちも慌てて移動してきたのだ。ラ・パスまで来てしまえば何とかなるだろう。何て言ったって首都なのだ。ところが、逆に私たちはストの渦の中に飛び込んでいったようなのだ。


■ラ・パスでのスト

ボリビアのストは日常茶飯事だという。現に数ヶ月前、ストにはまって身動きできなくなった旅行者の話を耳にしている。今回のストの発端は「炭化水素法案」をめぐるものだという。炭化水素というと何だか???なのだが、どうやらボリビア産の石油に関する法案のようなのだ。やや不思議な気もするが、ボリビアは石油自給率が100%。需要が少ないと言えばそれまでだが、とにもかくにも石油を自給している。その十分な石油をどうするか。そのことでどうやら国会&大統領がモメにモメているらしいのだ。そしてさらに2次3次とストは派生していく。

私たちがラ・パスを訪れたのは日曜日。翌月曜には何だか街がざわざわし始め、ストが始まった。市内中央を走る片側3車線の道路は封鎖され、歩行者天国のようになっている。ビルの間に響く爆竹の音。意外に静かに歩く人々。インディへナの民族衣装を身につけた人々がもくもくと街を行進している。私たちが泊まっていたホテルは大統領官邸のすぐそばだった。ホテル周辺は警官によって封鎖されてしまい、ホテルに帰るにもいちいち警官に説明しないといけない。ちょっと異様な街の光景だが、少し違う方向を向けば人々は普段と変わらない生活を続けている。ボリビアのストはやっぱり日常茶飯事なのだ。

ラ・パス5日目の朝。次の目的地コパカバーナに向かうことにした。タクシーでバス乗り場に向かう。街では相変わらずストの音がこだましていた。コパカバーナへのバスは動いていなかった。ストで道路が封鎖されてしまい、バスが通れないと言うのだ。日常茶飯事の割には、バスが動かなくなるほどなんて影響力が大きすぎる。だが、バスが通れないのだから文句を言ったところで始まらない。私たちはラ・パスでもう1泊することになった。

ストがおさまるまで2日ほどかかると言われていたが、翌朝、バスが通れるようになったという情報が入った。慌てて荷物をまとめバス停に向かう。今日はコパカバーナまで行けそうだ! バスの中は足止めをくらった旅行者たちでいっぱいだった。そうして私たちはボリビア最後の町、ティティカカ湖畔のコパカバーナに降り立った。明日はここからバスに乗り、同じティティカカ湖畔の町、ペルーのプーノPunoに向かう。


■古きアンデスの暮らしを訪ねてみたい

プーノはティティカカ湖に浮かぶいくつかの島への観光拠点になる標高3,855メートルの小さな町だ。町自体にこれと言って見どころはない、とガイドブックに書いてあったが、なるほどこれと言って見どころは無さそうだ。湖岸はよせばいいのに近代風に整備されてしまい情緒も何もあったものではない。ガイドブックには「早起きしてこの土地に暮らす人々の様子を眺めてみては」と勧められているが、港から出るのはモーターボートばかり。どこに帆を張った葦船があるのか。見つけることができない。

この町では私たちも他の旅行者と同じように、昔ながらの生活を守って暮らしている人々を訪ねたいと思っていた。プーノからは、ティティカカ湖に浮かぶ3つの島をめぐるツアーが人気だ。一番の目玉はウロス島Islas Los Uros(イスラス・ロス・ウロス)だ。ここはトトラという葦でできた珍しい浮島なのだ。そこに人々はトトラで家を造り、トトラで船をこしらえ生活している。ツアーではこのウロス島を訪れたあと、港から45キロ離れたアマンタニ島Isla Amantani'(イスラ・アマンタニ)へ向かう。この島でホームステイをしたあと、翌日もうひとつの島、タキーレ島Isla Taquile(イスラ・タキーレ)を訪ね2日間のツアーは終わる。

日帰りのツアーもあるようだが、私たちは「ホームステイ」に惹かれて1泊2日の3島巡りツアーに参加することにした。ウロス島も一度は見てみたい。値段は2食付いて45ソル(約1,575円)とかなりお得である。夜には民族衣装を借りてダンスパーティもあるという。これはなかなか楽しそうだぞ!


■またもやスト!

ツアー初日。「湖の掃除のため」というちょっと意味不明な理由で集合時間が1時間早くなったが、無事に船に乗り込んだ。港はそんなツアー船でいっぱいだ。船が港を出る。ツアーガイドのマヌエルがメンバーにむけて挨拶を始めた。そしてひとこと。「実は今日からウロス島のストが始まってしまい、ウロス島には行けないんだ」。なにー!? そんなこと聞いてない! それにどうして船が出てから言うんだ! ツアー客はざわついている。私たちもマヌエルに抗議する。ウロス島に行けないのならツアーの魅力は半減じゃないかー!

マヌエルはあまり相手にしてくれない。他のツアー客もだんだんおとなしくなり始めた。船はもう出てしまっているのだ。今さらどうしようもない。

船はトトラの間の水路を進んでいく。ところがしばらく進んだところで、エンジンを止めてしまった。何ごと? またもや船内はざわつく。しばらくすると状況が見えてきた。ウロス島民がプーノからティティカカ湖中央へ向かう唯一の水路を封鎖してしまっているのだ。これではウロス島抜きにしてアマンタニ島&タキーレ島へ向かうことすらできない。水路には同じように立ち往生してしまっているツアー船が10隻ほど固まっている。

と、そこへ爆音を響かせて巡視艇がやってきた。船首には機関銃が積んである。巡視艇の起こした波で、ツアー船は木の葉のように揺れてひっくり返りそうだ。この頃には、船のデッキにほとんどのツアー客が上がり、ことの成り行きを見守っていた。もちろん今日のツアーがどうなるのかも心配だったが、バリケードで封鎖しているウロス島民の様子を野次馬根性半分で見物していたと言った方が強い。彼らはいったい何に怒ってこんなことをしているのか。

マヌエルの話によると、彼らは税金の免除を訴えているのだ、と言う。その昔、スペイン人に追い立てられ、やむなくティティカカ湖に浮島を作り暮らし始めたウロス島民。いつの間にかトトラでできた島は観光名所となり多くの人が訪れるようになった。だがペルー政府は容赦しない。数年ほど前から、彼らからも税金を徴収するようになったのだという。ウロス島民の言い分は、維持するだけでも大変な島なのにこれ以上税金を取らないでくれ!ということらしい。

バリケードは解けない。当たり前だ。そんな軽い気持ちで始めたストではないだろう。遠くで拡声器を使って主義主張を訴えるウロス島民の声が聞こえる。

何だか無性に悲しくなってきた。彼らが何を言っているかわかるはずもないのに締め付けられるように胸が痛い。彼らは私たち観光客にも怒っている、そんな気がした。珍しい風習だから、とツアーを組んで訪れていいものなのだろうか。彼らはどんな気持ちがしただろう。自分が逆の立場だったらどう思うだろう。今では観光客がいないと生活が成り立たないかもしれない彼らでも、最初はずいぶんイヤな思いをしただろう。

船はUターンを始めた。当たり前だ。これ以上彼らを刺激してもしかたがない。彼らを見せ物にしようとした罰だ。私はツアーの続行を完全にあきらめていた。


■2島めぐりに変更

船が港に戻ると、マヌエルはツアー客に向けて話し始めた。「ここからバスを使ってある半島に向かいます。そこから船に乗って1時間。アマンタニ島に行けます。明日は予定通りタキーレ島にも行けます。どうしますか」ツアー客10数人は一瞬しんとなった。私は行く気がなかった。ウロス島に行けないから別の方法で他の2島に行く。これではウロス島民が訴えていることが無駄になってしまうのではないか。彼らの神経を逆撫でするような行為だ。ウロス島民を無視し、無理矢理ツアーを続行して解決になるというのか。ただの通過者である私たちがそんな無責任なことをしていいのか。頭の中ではぐるぐる色んなことが駆けめぐっていた。

予想に反して誰もリタイヤする人はいなかった。だが、ここで他のツアー客と議論するのもおかしい。私には私の考えがある、それでいい。私はリタイヤしよう。そう思っていた。ツアーは続行と決まったようだ。ツアー客は続々とバスに乗り込んでいく。どうして誰もリタイヤしなかったのだろう……。彼らの様子を眺めながら、今度はそのことが気になり始めた。だが、やっぱりここで彼らと議論するのは変な話だ。だとしたら……彼らがどうやってツアーを楽しもうとしているのか、この目で見てみるのもひとつの手かもしれないなぁと思い始める。何だか変な展開だが、徐々に気持ちが変化し始めた。「行ってみようか……」淳ちゃんが言う。私たちもバスに乗ってみることにした。私たちができることは何なのか。まったく見えなかった。

バスは2時間ほど湖畔を走り、港に着いた。船が私たちの到着を待っていた。私たちを乗せて船はアマンタニ島へ向かい始める。風と日差しが気持ちいい。「こんな状況になっちゃったけど楽しみましょう」オランダから来た年輩女性は、そう私に話しかけてくれた。私たちにできることなどあると思う方がおこがましいのか。私たちはただの通過者として、今ある状況をできるだけ楽しもうとするのがベストなのか。やっぱりわからなかった。


■18歳の少女アレハ

アマンタニ島に着くと、民族衣装に身を包んだ島の人々が私たちを迎えてくれた。事前にマヌエルから教わっていた地元ケチュア語で挨拶をする。村の代表の男性があいさつをしたあと、それぞれお世話になる家庭の人と対面があり、私たちはステイ先に案内された。

私たちはアレハという女の子の家にステイすることになった。アレハは黒を基調とした美しい刺繍の施されている民族衣装を身にまとっている。コマのような道具を使って毛糸を縒りながら、アレハは私たちを家まで案内してくれた。

家は質素な日干しレンガでできている。それでも、私たちが案内された部屋は宿の体裁を整えた立派なものだった。小さな蛍光灯まで付いている。

階下の食堂で遅めの昼食をいただくことになった。ここで採れた野菜を使った手作りのものだと聞いている。慣れた手つきでアレハがスープを運んできてくれた。ん??? 先ほどと何か様子が違う。そう、アレハの衣装が違うのだ。プーノなどでよく見かけるような、キツイ原色の普段着に着替えてしまっている。「あの服は普段は着ないんだね」そう言うと、アレハは半分苦笑いのような表情でこちらを見た。

あまりにわかりやすいアレハの行動に、私たちもついつい笑いがこぼれる。ついでにウロス島の事件について尋ねてみた。「うーん、よくわからない。でも私たちはずっと前から税金を払っているよ」これまたあっさりした答え。ティティカカ湖に浮かぶ島の人々、とひとくくりにしてしまうのは私たちの方で、アレハにしたらプーノだろうがウロスだろうが関係ないのだろう。

ツアーは予定通りに進んだ。夕方、村を見下ろす丘に登り夕陽を眺め、各家庭で夕食をいただいたあと民族衣装を借りてダンスパーティに出かける。私たちにとっては何もかもが珍しいことばかりだが、これは毎日繰り返される体験プログラムなのだ。アレハたち島民は観光客相手に毎日同じことをしなくてはいけない。だがアレハはあっさりしている。私も余計なことを考えず、珍しい風習を体験させてもらおうと考えた方がいいのかもしれない。そしてお金を介してではあるものの、与えられた状況を楽しんだ方がいいのかも知れない。あまりに割り切ったように見えるアレハや、ウロス島のことなど無かったかのように楽しむ他のツアー客を見て、そう思ってしまう。

この先、先住民を訪ねる、というツアーにふたたび参加する機会があるかもしれない。その時私はどうするだろう。どうするべきだろう。どうしたらいいのか、今はまだよくわからない。興味本位で参加していいのか、よくわからない。だが、今後一切こういったツアーに参加するのは止めよう、という気にもならない。悶々、悶々とアマンタニの夜は過ぎていった。この集落には街灯がない。静寂、と呼ぶにふさわしい夜だった。

翌朝、やっぱり普段着のアレハが朝食を運んできてくれた。私たちが好きだと思って作ってくれたのだろう。ぺったんこのパンケーキだった。この村の人はベジタリアンだ、と聞いていたが庭には鶏肉が干してあるのが見える。「これを食べたら港へ行かなきゃね」アレハはそう言って自分の部屋へ消えていった。

7時40分。民族衣装に着替えたアレハは「さ、行きましょう」と私たちを港まで送ってくれた。





▼ウロス島、アマンタニ島、タキーレ島へのツアー

私たちは、宿(Hostal Kantuta)のおばちゃんに申し込み。
40ソル程度という相場を聞いていましたがひとり45ソルでした。
ストのせいで変則的なスケジュールになりましたが
「追加料金は不要」という説明がマヌエルからありました。
が、最後プーノに戻ってきたあと、別のスタッフから
「10ソル追加で払え」という請求が。
これにはツアー客全員で抗議し支払いは不要になりました。

Inka Adventure E.I.R.LDA社



▼ラ・パスのスト、その後

私たちが訪れた5月中旬を皮切りにその後、ラ・パスのストは
延々と続いたそうです。そして6月中旬、ついにストがきっかけで
ボリビアの大統領が交代した、というニュースが!
意外にも(と言っては失礼ですが)社会を変える力があるんだな、と
驚く反面、こんなに簡単に変わってしまうということ自体が
まだまだ不安定な国という証拠なんだな、と思ったり。
私たちは足止め1日で済みましたが、なかなかラ・パスを
出られなかった旅行者も5月下旬以降たくさんいたそうです。

ウロス島のストについてのその後の情報は得られず。ごめんなさい。






 
ボリビア ラ・パス フォルクローレ
ラ・パスで楽しみにしていたことのひとつがフォルクローレ(ボリビア音楽)鑑賞。ボリビアにはペーニャというライブハウスがたくさんあって毎晩フォルクローレを聞くことができます。私たちが訪れたのは、観光客向けでありながら特に音楽を中心に聞かせてくれる「マルカ・タンボMarka tambo」というお店です。ショーは22時スタート。食事やお酒を楽しみながら、次々登場するプロミュージシャンの音楽を楽しみます。この写真はモソフ・リャフタMosoj Llajtaというバンド。一番左でギターを弾いているのは日本人の秋元広行さんです。なんと秋元さん「島唄」を歌ってくれました。他にも国民的スーパースター、ロス・カルロス率いるバンドや女性ばかりのバンドなど本当にみどころたっぷりで楽しませてもらえました。

ラ・パス ボリビア サン・フランシスコ寺院
ラ・パスの中心部、サン・フランシスコ寺院前でのストの様子。この先新市街方向に片側3車線の道路が続いているのですが全面封鎖。まるで歩行者天国でした。

ボリビア ラ・パス 街
標高3,650メートル。世界最高所にある首都ラ・パス。すり鉢状の町は、底に高層ビルや高級住宅地が建ち並び、上に行くほど貧しい人々の住居が広がっていると言います。正面にそびえるのはイリマニ山Montan~a Illimani6,402メートル。

ボリビア コパカバーナ
標高3,814メートル。ティティカカ湖畔にあるボリビア最後の町コパカバーナです。この町にはスペイン人によって建てられた美しいカテドラルがあって人々から篤い信仰を得ているようです。

 
ペルー プーノ
同じティティカカ湖畔の町、ペルーのプーノの市場の様子です。雑多な雰囲気の中に何でも売っています。

 
ティティカカ湖 ウロス島
ティティカカ湖中央部に抜ける水路の先をふさぐウロス島住民。右側に巡視艇が停まっています。

 
ペルー ティティカカ湖 ウロス島
「今日はダメだ〜」といっせいにプーノの港へ帰る観光船。両脇に繁っているのがトトラです。

 
アマンタニ島
アレハの家の台所。夕食はここでみんなで食べました。もちろんかまどは直火。お母さんがおいし〜い野菜スープを作ってくれました。後ろにいるのはアレハの弟のウィルソン。

民族衣装
夕食後、アレハに民族衣装を着せてもらってダンスパーティーに向かいました。けっこうしっかり分厚い生地に施された刺繍が本当にきれい。布地はウールでした。

民族衣装 フォルクローレ
そしてダンスパーティの会場にて。と言っても公民館のような場所。フォルクローレバンドの生演奏つき。

アマンタニ島
アマンタニ島の朝の様子。

アマンタニ島 民族
朝、お世話になった家族と一緒に記念撮影。弟のウィルソンはもう学校に行ってしまっていました。

 
タキーレ島 インカ時代
2日目、アマンタニ島のあとにおとずれたタキーレ島。インカ時代のなごりが見られる農耕システムや素晴らしい織物など見どころもたくさんありますが、私たちはのんびりした雰囲気そのものが気に入りました。

タキーレ島 風景
これもタキーレ島にて。




▼PART39 2005.07.21 サルカンタイルートで目指せ空中都市 〜ペルー マチュピチュ遺跡
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